私の歴史

紫の文字はAC(アダルトチルドレン)にありがちな一面、青字は精神疾患の前兆や傾向、赤字は人生の転機となった出来事です。

 

 

1978.10.2

広島県で誕生

父は無関心、母は過保護で過干渉。

母が大好きでべったり。聞き分けが良く、何もねだらない従順な子。

2つ下の妹が生まれてからは面倒見の良いお姉ちゃんに。

転勤族のため、幼稚園は岡山県と、愛知県(2か所)へ。

 

小学生  

三重県、静岡県と転校しつつも、各地で友達や先生に恵まれる。

自然が大好きで、お花を摘んだりメダカやザリガニを捕ったり。

おとなしく優しいおっとりした子でありながら、学級委員を数回経験する。

表現力豊かでアイデアが次々湧くので母に褒められ得意分野は伸びる。

楽しい日々ではありながら、母の気分の波(優しい母とヒステリックな母が別人格のように交互)への混乱からか、母がいつかいなくなるのではと妄想の恐怖に

襲われるように爪を噛むのが癖になる。

5年生の3学期からインドネシアの首都ジャカルタで暮らす。

 

中学生 

現地での生活と日本人学校の仲間は今でも財産。

信じやすく人が好きで繊細な元々の素質と、この国での、細かくなく

フレンドリーで朗らかな、のびのびした環境は、とても合っていた。

反抗期は始まれど、男女問わず友達との楽しい毎日。

 

高校生 

愛知県にて入学。帰国子女枠で入った学校のレベルの高さと、

アメリカ帰りのクラスメイトの奔放さに戸惑う

自らは母の言いつけ通り、流行りに乗らない三つ編み少女。

制服も全くリメイクせずルールを守る生真面目な子。

日本に馴染めない、クラスに馴染めない、と帰宅したら泣くことも。

人並より上だった学業の成績は一気に落ちる。

表現力豊かだったのを封じ込めるようになり、アイデアが湧かなくなってくる。

落ち着かない時に髪の毛を触って痛めつけるのが癖になる。

この頃から生きづらさを感じ始める。

ある時居場所を求めボランティアに目覚める。複数の施設を訪れたことで

生き甲斐を取り戻し(役に立っているというよりも、そこで出逢う人たちに

魅了され)、生徒総会で呼びかけサークルを立ち上げ、20名の仲間と共に

活動を重ねる。

 

大学生 

地元の福祉関係の学科へ入学。気の合う友達に恵まれ、再び楽しい学生生活を

送る。ボランティアしていた施設でアルバイトもするように。

アルバイトは他にもいくつか経験。     

ただ、恋愛において依存的だったり、見捨てられる不安が強かったり、

無意識に母の好きなタイプの人を選んだりして、交際相手との価値観の違いに

孤独を感じ悩む。

二十歳の時、大学の生協で何気なく手に取った本「依存症」から、

AC(アダルトチルドレン)を知り、私はこれだと気づく。

そこから、母との共依存を自覚し母にぶつかり訴えるようになる。

卒業論文も、テーマはAC、生きづらさ。

過保護だった母は一変。放任、私のすることなすこと全否定の性格へ。

確執が生まれる。その分母は、妹にべったりに。

 

2001 (22歳)

ウェディングプランナーとして新卒入社。

一見華やかで幸せに満ちた職場の裏側や、ドロドロした人間関係を知り、

それがストレスで、通勤中に息切れするようになる。

自分の生きてきた世界と、社会とのギャップに苦しむ。

教育担当の先輩も気分で接し方が変わり八つ当たりされる日々の中、

お客様の幸せな結婚式のため自分だけはと寄り添って打合せを進めることで、

その年の契約が先輩や同僚を抜き1位となる。

しんどさは消えず、仕事中の小さなことでも頭が真っ白になって出来なかったり

ミスしたりするように。

 

2002 (23歳)

初めて行ったカイロプラクティックで自律神経失調症と診断される。

幼馴染の彼と付き合うようになるが、これまた無意識に母の好きなタイプの人

だったため価値観が違いすぎ、ただ従順に従うか喧嘩するかで心から楽しめない。喧嘩の度に貴女が悪いと母に叱られ否定が増す。

淋しさを持ちながらも母の言う通り自分が悪いのだと思い4年3ヶ月続くことに。

 

2004 (25歳)

お客様のニーズが式場へ向かなくなったのを機に結婚式場を退職。

ビジネスホテルのフロント業務に就くが、契約時と全く違う雇用の悪条件悩む皆を守るため、正義感が勝って、気に入られた上司にモノを言い

気まずさと罪悪感で2週間で退職(職場の条件はその後良好に)。

の後シティホテルで1年間の契約社員。

対人恐怖があり、真っ白になってしまうことも小さなミスも変わらず。

この頃にはうつ病に。メンタルクリニックを一人で探し転々とする。

と独り暮らしを

始める。ホッとするが、家族や話せる親友の突然の引っ越し等、

環境の変化で体調が悪化

パニック障害を併発したり睡眠障害が出たりし始める。

にも関わらず、親に昔の苦労話を聞かされたことをきっかけにショックを受け、

返したいお金のため副業を掛け持つ

両親は病気への理解は全くなく、「怠けている」「甘えだ」と罵られる。

 ケーブルテレビ放送部へ、かなりの数から選ばれ採用されるが

心も身体もついていかず半年で退職。 

 

2005 (26歳)   

学生時代に学んだ福祉分野へ戻る決意をし、ホームヘルパー2級を取得。

介護職に就き、施設で働く。

 

2006 (28歳)   

無理がたたって職場の施設である日動けなくなり社長に介抱させてしまう。

迷惑をかけたことで申し訳なく、居づらくなり退職。

介護病棟で働く。掛け持ちも続行中。

実家は気持ち的に居場所がないので帰れず人生で一番迷走した時期。

長かった彼と別れた後には自分の気持ちがわからないまま、言われるままに

交際をする。元交際相手がストーカーになり自宅や職場へ現れ警察沙汰になった

事件も。

希死念慮が1年くらい続く。

 

2007 (29歳)

病気でどうにもならなくなり退職し実家へ。1年間の両親との同居で症状が悪化し

心身ともにボロボロに。

それでも親への金銭面での懸念から、バイトや契約社員をして働く

5月に出逢った愛知県の彼と12月にスピード結婚して再び愛知県へ。

夫の許受容から、回復への道を歩み始める。

 

2008  (30歳)

6月に結婚式。プランナー経験から自ら総合プロデュース。

うつ病・パニック障害がまだ酷い毎日の中でも、新婚旅行のフランスや、

機会に恵まれ私の第二の故郷インドネシアのバリ島への夫婦旅行も実現。

その後主婦・療養をしながらパートを始める(ビジネスホテルのフロント2年弱、他短期バイト)。

ご縁で数年ポートレートモデルも。容姿コンプレックスとの闘いが荒療治に。

 

2012 (33歳) 

Amebaで書いていた闘病ブログから、とあるカウンセリングルームの社長より

「貴女はカウンセラーに向いています」と声がかかり、人生が変わる。

社長との関わりからまずは半信半疑でカウンセラーの資格を取得

やりたいことが見つかったこと、自分の人生を丸ごと生かせることから、

気力が湧いてくる。

当事者・仲間の意味の「ピアカウンセラー」を名乗り2012.3.26活動を開始

4ヶ月目からお仕事を頂くように。イベント開催も始める。

改めて心理学を深めるため、数々の講演・ワークショップ等のイベントへ

出向いたり、自らがカウンセリングやセラピーを受けたりし始め交流も広がる。

心理学の素晴らしさ、奥深さ、逆にシンプルさ等いろいろな角度から虜になる。

また、自身のクライアント様の懸命に生きる姿にも感銘を受け、

この仕事の素晴らしさを益々知る。

セルフカウンセリングも出来るようになる。

 

2013 

うつ病・パニック障害回復。子どもを考え始める。

個人カウンセリング、イベント開催に加えイベント出展へも幅を広げる。

 

2014  

不妊治療・子宮内膜ポリープ掻把手術を経験。

初めての妊娠・流産

 

2016 

二度目の妊娠・長男出産・育児開始

 

2019~2020.3

8ヶ月間の夫婦別居生活、離婚調停

離婚

12年の結婚生活に終止符。まさか自分が離婚するとは思っていなかったけれど、新しいステップであると昇華している。

 

2020.5

母子で長野県の実家に転居

カウンセラー活動の拠点も主に長野県へ。 

父子面会も開始、新たな家族のカタチを実現。

 

2021.5

 母子で実家の隣町に転居

カウンセラー活動10周年!!(43歳)オンラインセッションも開始。

 

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